2015年2月17日火曜日

発表会までの課程が発表です。

毎日の暮らしの中から、驚きを発見することが、
楽しさにつながります。きっと。



2015年2月12日木曜日

その場にいること

“小さな子どもや知的障がいの人が音楽を楽しんでいるがルールを脱線してしまうケースについては、あまり厳格なルールを守らせようとし過ぎず、ゆるやかに対応してほしい。そうした譜面の指示から少しはみ出た音の存在も、作曲者の欲するところであるからだ。”野村誠

あちらに立てば、こちらははみ出ていて、
こちらに立てば、あちらははみ出ていて。

せめて、あなたは、あなたが、あなたで、そこにいてくれれば、
この場は、それでいい、という空間を、
それが、なによりの、ことであるという、

わたしは、そう、子どもたちといっしょにいて、

それが、もしかしたら、ちがうかもしれないけれど、

それがいいよね、と、子どもたちは言っているように、

きこえます。




千住の1010人

今週、群像舞楽に伺ったことも、このノートに書いておこう。


2015年2月5日木曜日

教育先進国リポート〜オランダイエナプラン教育〜

気になっていたイエナプラン教育。
DVDが発売されているということを知って、直ぐに注文しました。
「教育先進国リポート」オランダ入門編-子どもの幸福度世界一に迫る!




リヒテルズ直子さんが、最後に「ここは、力が入っている」とお話されているシチズンシップ教育。
何も知りませんでした、では済まされない、頭の中が停止してしまうようなことがあったばかり。




1・個人的な責任を負う
2・参加的行動

ここまでは、軍事的な国でも教育は可能。次の、

3・社会的正義を守る

こういうことがありました、
それなら、どうしたらいいのか、を考える教育。

全てが、教育の責任だと感じてしまうのは、教育の立場からの意見で、
きっといくつも視点はあると思います。

ただ、最重要として考えていかないといけないことは、
子どもたちの今、ではないでしょうか。


小さな小さな、町の片隅の教室で、
たったひとりでも、何かを感じ取ってくれたなら。

まずは、対面式の形を変えることから、始めました。

先生が「正しい」答えを持っているわけではない。
なにが「正しい」かは、みんなで考えていこう。

いっしょに考えてくださるお母さま方にも、感謝です。


すまいるリトミック


リヒテルズ直子のシチズンシップ教育

地方から教育を考える
対談 山下洋輔 苫野一徳

DVD販売グローバル教育情報センター









2014年12月12日金曜日

リトミックでは考えることと、考えないこと、を身体で判断する

逆説的なタイトルをつけてしまいました。
子どもたちとのレッスンでの出来事を言葉にすることで、
伝わるかもしれないので、ちょっと綴ってみます。

どちらも今週のレッスンです。

まず、すまいるリトミック5歳児クラス。


森の動物たちに、サンタさんがプレゼントをしました。
プレゼントをしたものは?

くるみ にんじん はぶらし マフラー かんむり

全て、リズムにあてはめて

ティティター ターター ティティティティ ティティター ターティティ

それを、リズム積木で並べる。

ここまで、すんなりと子どもたちだけで作る。
続けてリズム唱で言葉とクラップをする。

2人が、1小節ズレて終わった。
なにをしたのか聞いてみたら、笑いながらこう言うんだよね。

「カノンをした」と。

びっくり。自分で考えて行動。

その積木を、上下にズラす男の子。
これも、なにをしているのか聞いてみたら、笑いながらこう言うんだよね。

「みんなで、分かれて、やろうよ」と。


つまり、

A ティティター    ティティティティ      ターティティ 

B      ターター        ティティター

Aのグループと、Bのグループで、交互唱のようにやろうと言う。

びっくり。自分で考えて行動。

それから、こんどはこうしたい、こんどはあれをしよう、と
おともだちから、たくさんの意見が出てくる。
みんなで楽しめる「遊び」を、どんどん作っていく。
遊びには、ルールが必要で、そのルールも少しずつ高度にしていくことで、
楽しみを増やしているのね。

ここまでは、今までのレッスンの中から、経験を通して子どもたちが身についたこと。
もっと楽しい遊びをしよう。

右手と左手で、同時に違うリズムが流れていくことをやってみる。
あ、何年か前に、男の子がやってくれた動画があったはず。あったあった。






子どもたちの目の色が変わった。
「むずかしいよ」「できないよ」
それでも、真剣に取り組む姿。

終わってから女の子が、
「せんせい、どうやったら、できる?」
と聞いてくれた。

考えないこと。笑。

先日この日の学校に伺った時に、甲野先生が、
「火事場でおばあさんがタンスを担ぎ上げる時、こんな重い物を持てるかしら、
と、考えたら持てないでしょう。逆説的な言い方になるが、考えないことです。」

できるか、できないか、を考えているうちは、できない。
先に、カノンでクラップをしたり、上下に積木を並べたりする時は、
きっと、できるか、できないか、は考えずに、子どもたちはやっていたのだと思う。

それならば、考えずに行動できるようにするには、どうしたらいいのか。

同じことを繰り返して言うボケばあさんのようですが、
音楽的センスを、身体に身につけること、それには、
とりあえず、頭で考えずに、身体で判断できるように、
整えること、かしら。

そして4歳児。長くなったけれど、続けます。

5歳児が、サンタさんのプレゼントをリズムで並べてびっくりしたけれど、
4歳児のおともだちも、すらっと完成。これは、この子たちの持っているものが、
光って飛び出てきたのが、今が、来年か、の違いなので、できないからと言って、
焦ることでもないのね。

その後に、タイコを出して、同じ数で同じ拍を叩くことをやろうと思ったら、

 「せんせ、あれやろうよ、あれあれ、あおいボードとか、きいろいボードとかの下に、
おにぎり置くやつ!」

 「あ、それいい!あれ、やろう、あれ!おにぎりのやつ!」

オニギリ・・???おにぎり???

このクラスでは、ニュアンスの把握として、秘密の宝物探しをやったとき、
おにぎりを使ったことを思い出した。
さっそく、オニギリ探しに変更。こちらが考えていることと比べ物にならないくらい、
その時に、子どもたちが、やりたい、と考えたことは、とてつもなく素晴らしいことなのです。

ここでも、自分たちで遊びを考えて、自分たちでルールを決めて、自分たちで行動する。

今週選挙を控えて、慌てて読んでいる内田樹先生の「街場の戦争論」。

つまり、戦後ではなく、戦前になっているのではないか、
それには、この子たちが、どうしたらいいのか、どのように学びとる力をつけておかないといけないか。

 「せんせ?リトミックのオリンピックってある?」
5歳児の女の子。

リトミックはね、残念だけど、誰かと比べたり、何点とれた、とか、数であらわすことができないの。リトミックのオリンピックは、みんなのココ。ここね、お腹とか胸のあたり、ここに、できあがるやさしい心よ。

すまいるリトミック





2014年11月28日金曜日

同じ音楽の時間は流れない

同じことをお家でやって、と言われたけれど、出来なくて、
とお母さま。
こういうことか、とよくわかりました、ってね、
わたし、うれしくてね。昨日、レッスンが終わってから、言葉にしようと思ったけれど、
これも、伝えられなくて。
ここは、ノートなので、ざっくりとメモしておきます。




男の子が「もういちど」と言っていたことは、
五線カードに、ドレミファソラシド、の玉を置いた後、
鍵盤の上でも、ドレミファソラシド、を同じように指を動かした。

ひとりずつ、そして、そして男の子ふたりで、そして、
わたしもいれて、3人で。

ぴったりと3人の呼吸が合って、すっと、最後のドの音を弾き終えた時、
空気の中に丸い大きな風船のようなものが、ほわんと舞った。

男の子は、ここは憶測でどのように感じたかはわからないけれど、
この「ほわん」を、きっと「もういちど」とお母さまにお願いしたのだと思う。

前回のノートで、砂時計のことを綴ったけれど、
それと同じで、一度流れてしまった時間は、戻すことはできない。

音楽は録音再生機で何度も繰り返し聴くことができるようになって、
町には、消費を促すように、呼吸をはやめる音楽が流れ、
ヘッドフォンで自分ひとりの耳を聴き、
音楽と耳の間の距離がなくなり、自分の聴きたい音楽と耳の間を流れる音は、
雑音と排除され、より透明な、より繊細な自分だけの空間を作り出した。

音楽は、社会をそのまま映し出す。人がそれを求めているから。

求めているものを否定なんてしないし、それは音楽ではない、とも言うつもりもないけれど、それとは別に、幼児期に、様々な音楽の場を経験することで、
より人間らしい生き方が出来るのではないか、と、大げさだけど考えている。

人間らしさ、とは?

この「ほわん」だけに限って今思うことは、
人と人の間を流れる空間を生きる、
そのまた人と人をつなぐ、木や土や宇宙全体を生きる、

あらま、大きくなりすぎた。

でもきっと、お母さまに「もういちど」とお願いした男の子は、
今度、それを、どこかに求めながら、これから生きていってくれると思う。

どこで、どう、どのような形になるかは、
それは、だれにもわからない。
あとは、この子が選んでいくよ。

ああ、楽しみね。
ありがとう。

すまいるリトミック





2014年11月19日水曜日

砂時計からリトミックへ

先日、
「ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古」を観てきました。




その中で、砂時計が非常に印象に残っていて、
さっそく購入。



1歳児クラスから、小学生クラスまで、この砂時計をレッスンに取り入れてみよう。
(4歳児クラスと小学生クラスはこれから)

1歳児クラス。
じーっとみつめる。「はんたいにして!」もういちど、みつめる。

2歳児クラス。
息を止めるかのようにみつめているけれど、
それよりも、「ぼくの居場所確保」の方が、今は重要らしい。
自分の見る位置を、押したり、外したり、微笑ましい時間。

3歳児クラス。
「まんなかが、へっこんでいく!」
「ほんとだ!もう少しでなくなる!」
そして、
「わたし、きょう、服を2枚着てきた」
「わたしは、きょう〜・・・」と
わたしのお話が続く、砂時計3分間。

5歳児クラス。
この間映画を観てきてね、
砂時計ってね、人生のようで。
どんどん減っていくんだよ。時間は止められないし、
戻すこともできない、音楽といっしょだよね。

「その映画ってどんな映画?せんせ」

ああ、あのね、絨毯の上をね、一本のロープがあると思って、
歩いていた。

「こんな感じ?」

歩き出す子、2人。
おっとっと、そーっとそーっと、おっとっと、と言いながら。

砂時計の、砂が落ちたことを確認して、
「あと、どんなことやってた?」
と聞かれたので、ふいに思い出したことをやってみた。

円になって。
1.2.3.4,5,6,7,8,9,10~
順番は決めない、自分が思った時に数を言う、
でも、おともだちと声が重なってしまったら、1からやりなおし。

これがね、何がおもしろかったのか、
お腹抱えて笑っていたんだよなあ。
さらに、
「みんなでやろうよ!」とお母さまも呼んで、もっと大きな円に。

人数が増えれば、重なる確立も増えてくる。
それでも、大笑い。

さて、今日のレッスン終わり!の声をかけたら、

「時計周りに、順番に言おうよ!」と女の子。

そうだよね、そうだそうだ。それがいい。

お母さんも含めて、円になって、1,2,3,4,5,6,~を言う。

リトミックでは、相手に、呼吸を飛ばすように、ふわっと手で次の人に合図をする。
それをやりはじめたら、
順番に数えていった30ぐらいからかしら。

ふっと違う人に飛ばしたお母さま。(さすが)

それからは、右に左に、対曲線に、3人飛ばしに〜
ぐるぐると数がビートを崩さずに99に、

そして、最後の100を、
お母さまがわたしに飛ばしてくれたんだよなあ。

痺れるね。

「砂時計」の意味は、もっと違うところにあったと思うけれど、
何かひとつをみつめることで、呼吸を整える時間になるのではないか、
と考えた。

子どもたちといっしょに、砂時計をみつめている時間。
「いい時間」が、こうやって過ぎていくんだなあ、と。

そうそう、
5歳児クラス。レッスンが終わってから、
「お父さんとやる!」
「あした、お友達とやる!」

と、みんなの声。

お父さま、なんのことかわからないかもしれませんが、
1.2.3.4.~
どうぞ、よろしくお願いします。

すまいるリトミック




2014年11月15日土曜日

音楽に合わせて歩くことが出来ないということ


「われわれは、様々な場面で、まわりの人と同じようにふるまう、ことを強力に内面化している人間たちなのであって、それゆえ、変な人だと思われることを、ごく幼い頃から、非常に強く恐怖しているのだ」


絶賛コンテンツはなぜ増えるのか



(なぜか、大きなタイトルになってしまったけれど、気にしないで、先に。笑)

たぶん、日本の風土からそうなっているとどこかで聞いたお話。
そう、母は子のその姿を見ると、我が子は生きていけないのではないか、と
絶望的な気持ちになる。

先日のリトミック研修で、「自分で自由に歩いてごらんなさい」というのがあった。
リトミックの先生方ばかりなので、そりゃもう、ごちゃごちゃな空間が出来上がった。その次に「自分と同じ歩き方をしている人を探して一緒に歩きなさい」と。みつけることは簡単で、すぐに一緒に歩いた。
ただ、ここからが大変。どうしても、一緒に歩くと、その人に合わせてしまう。同じ歩き方をしている人をみつけて歩いているのだから、合わせる必要はないはずなのに、合わせてしまう。
同調なんとか(忘れた)というものだと思うけど、自分のテンポを守り続けること、合わせることよりも、合わせないことの方が、なかなか辛いものだ、と。

ここに、音楽なんか流れたら、狂い出すくらい歩けないだろうなあ。

ただ、子どもが、音楽に合わせて歩けない、というのは、そこまでまだいろいろと達していない身体の部分があるだけで、そんなに頭抱えて心配することではないと思っている。
だから、リトミックの即時反応の時に、音楽が止まったら、身体が止まることができた、というのは、
なにかとなにかがつながった、ということで、それほど、大喜びする必要もないのね。
音楽は、無視するよりも、猛毒になって襲いかかる時もあるから、そちらの方を気をつけた方がいいね。
ほら、今、そこでも音楽が流れているでしょう?