2014年7月21日月曜日

色をいただく

ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。
  私は順番が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわなずにこちら側に宿すのである。
雪の中でじっと春を待って芽吹きの準備をしている樹々が、その幹や枝に貯えている色をしっかり受けとめて、織の中に生かす。その道程がなくては、自然を犯すことになる。蕾のびっしりついた早春の梅の枝の花になる命をいただくのである。その梅が抱いている色は、千、万の梅の一枝の色であり、主張である。
私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞きとどけたいと思う。その色と他の色を交ぜることはできない。梅と桜を交ぜて新しい色をつくることはできない。それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである。
化学染料の場合はまったく逆である。色と色を交ぜ合わせることによって新しい自分の色をつくる。単一の色では色に底がない。化学染料は脱色することができない。自然が主であるか、人間が主であるかの違いであろう。
「色を奏でる」志村ふくみ・文 井上隆雄・写真

子どもが主であれば、子どもの色が、染まるのでしょう。




  志村ふくみさんの「一色一生」も、開いています。ひさしぶりに、美しい日本語に出会いました。すっと、背筋が伸びる思いです。



2014年7月20日日曜日

音楽する身体 

音楽の授業で子供の音楽する姿は自然ではない。子供が、能面のような表情で死んだような身体で音楽活動をするのなら、そのような不自然な授業は教師の責任以外の何物でもない。子供のやる気を掘り起こす指導をしていないからだ。
 「音楽する身体 音楽科教育における大いなる課題 松田京子」2009より
6年 男子児童作文
(中略)4月、新しい音楽の先生の出会いから始まる。・・略・・まず、一人ずつ自己紹介した。ぼくは「音楽は、教科とは考えていません。ぼくは、K校を受験するつもりです。N塾でも、偏差値は高いんです。音楽は、何の興味もありません」と言った。言い終わって、「どうだ、言ってやったぞ。さまあみろ。おこれ。おこれ。まあ、音楽の先生がおころうが、ぼくは動じるものではない。」「ふん」という挑発的な心ですましていた。しかし、先生はおこらなかった。「I君、人間、学ぶべき時に充分に学ぶことはすばらしい。知恵を養い、教養を高め、目標に挑んでいくことは価値あること。これからも先生も応援します。」
 この言葉を聞いたぼくは、驚いて、後ろにのけぞり、尻餅をつきそうな思いだった。「塾の点数を最優先するぼくを、なぜおこり、嫌な目でみないんだ。」こんなことがあってから、ぼくは、週二回の音楽の授業を楽しみに待つようになっていく自分に驚きながらも、信じられないくらい音楽にひかれていった。
 そして、音楽の楽しさ、深い味わい、神秘性、そのようなものを心から感じられるようにぼくの心は、少しずつ目覚めていった。ぼくだけでなく、クラスのみんなも、音楽に対する態度、関心、接し方が変わってきた。・・略・・なにより、ぼくを中心とする音楽嫌いだった人たちも今やのめりこんで音楽を表現していくようになった。1学期の中頃、担任のA先生がぼくたちの歌を聴きに来てくださった。先生は、聴き終わった後、絶句して、泣いた。5年の時からの担任のA先生が、生まれ変わったぼくたちの歌っている姿を見て、歌を聴いて、なぜ泣いたか、ぼくはとてもよく分かった。
 ぼく自身、どんどん音楽に引き込まれていく自分に驚きながらも満たされた気持ちの日々だった。
 リコーダーの試験があった。ぼくは、いつもぼくを認めてくれる先生をがっかりさせる演奏をしたくないと思った。でも、いくらその気持ちがあっても、3、4年生の時、ろくにリコーダーの練習などしてなかったぼくにとっては、急にすばらしい演奏をしようと思っても無理な話だった。途中でつっかえたぼくは、頭の中が真っ白になり、指がガタガタと震え、無惨な姿だった。ぼくは、心の中で「何だ。リコーダーも満足にふけないのか
と思われたと思った。しかし、先生は、試験の後の講評で「I君は、自分の番が来るまで、他の人が演奏している時、いっしょに指を動かして一生懸命練習していたね。先生は見ていたよ。君は、より美しく心をこめて演奏したいという気持ちを溢れさせて試験に臨んだ。ガタガタ震えるくらい全力で必死にがんばったね」と言ってくれた。(中略)
ぼくは、試験の後、皆で「つばさをください」を歌った時、目をつぶって、歌の内容を浮かべながら、体をスウィングさせて思いきり歌った。心の中に涙が溢れた。(中略)ぼくは、今までで初めて、上手に吹きたいと思って吹いた。それをわかってもらっただけで十分だった。(後略)

 
6年児童作文(2002)音楽鑑賞教育復興会作文コンクール入賞作文より

わたしも、泣いた。


2014年7月19日土曜日

人間の体はすばらしく精巧な機械です。心はその運転手です。日本のリトミック研究者 小林宗作先生

リトミックは体の機械組織を更に精巧にする為の遊戯です。
リトミックは心に運転術を教える遊戯です。
リトミックは心と体にリズムを理解させる遊戯です。

リズムは不思議な力で人生と宇宙を支配しています。
リズムがわかると音楽や舞踏、絵や書等がよくわかるようになります。
それらのものは等しくリズムを生命とし要素としているからであります。

リトミックを行うと性格がリズミカルになります。
リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに自然の法則に従います。

リトミックは芸術的体操でありますから、衛生的体操のもたらす健康に併せて、
感情を近いする真の文化人の健康体を獲得することが出来ます。

文字と言葉に頼りすぎた現代の教育は、子供達に、
自然を心で観、神の囁きを聴き、霊感に触れるという様な官能を衰退させたのではなかろうか。

小林宗作

何年も前から、読むと決めてメモをしておいた本。


黒柳徹子さんが書かれた本「窓際のトットちゃん」の先生が、小林宗作先生です。
小学校の先生をされていた時に、
「音楽教育は、小学校からでは遅い、文部省の教育過程にのっとっていては本当の音楽教育は出来ないのではないか」と非常に疑問を抱くようになります。
そこで、ヨーロッパに渡り、ダルクローズに直接指導を受けました。
ルソー研究所にも立ち寄っています。








感謝です。金子君。君への感謝のいくつかがある。
子供を自然の中で育ててくれることが何より感謝だ。大きく子供らしく育ててくれることが感謝だ。自然の中で自然児にしてくれることが感謝だ。あの生活ぶりとリトミックを見るともう一度生まれかわりたい。動物園の猿みたようにし、お行儀のいいお人形にし、字でも早く教えることをいい幼稚園だと思っている世間の人々に腹が立つ。この間も、成城の幼稚園を退園した方が或る幼稚園を数回参観に行って「やっぱりここもダメだ。成城みたように遊びばかりして字を教えてくれない」と言ったそうだ。子供の生活の本領を知らぬ親にも困る。


その後、宗作先生は幼稚園自身の批判を加えながら幼稚園では何をすべきかを模索しながらまとめています。
「・・幼稚園の保育の内容が小学校の低学年の教育の内容と混同されてはいないか。幼稚園では概念的な智育は、これを行う時期ではないと思う。(これは当然なので、誰でもそう思うている事であろうが、実際になると私は安心していられない)幼稚園では後で大きくなってから智的に扱わるる時に、これを正しく理解する事の出来る感受性の基礎、即ち感性を醒し、発達せしむる為に、いろいろな生活経験内容を豊富ならしめて置けば良いと思う。(中略)幼児教育の内容は如何にしたらよいか。便宜上項目に分けて記述はするが、実際は項目に分ける事は出来ない未分化の状態で、すべてを扱わなければならないことを承知して置いて頂きたい。


こどもとリトミックの今日と明日 

戦時中でも、なぜ自由な学校運営が出来たのか。今、海外の教育がたくさん日本に入ってきて実践をしようとしているけれど、小林宗作先生は、あの当時に取り入れていた。

教育は、目先のことにこだわってはいけない。20年先を見なさい。

小林宗作先生の教え子たちは、今、輝いています。





2014年7月5日土曜日

すまいるリトミック.七夕レッスン.

もうすぐ七夕。毎年、すまいるリトミック教室では、七夕のレッスンに制作をしています。去年は、蜜蝋キャンドル、おととしは、紋切り遊び。
今年は、こちら。





1歳児、2歳児は、和紙の紙で、指先の触覚感覚を楽しみました。
「ざらざら」「ふわふわ」「ぼこぼこ」「ざわざわ」
日本語のもっているリズム感は、そのまま音楽になりますね。



それでは、
子どもたちの作品を紹介します。全員のお写真を撮ることができなくてごめんなさいね。









4歳児と5歳児は、空間感覚が養ってきているんでしょうね。立体的なものを造ったり、
「新幹線」や「電車」など、作りながら、何かに見立てていました。



1歳児は、穴があくこと、紙が切れること、形が変化すること、に興味津々。






2歳児は、「長さ」にこだわっていました。
つなげると、長くなる。2歳児は、大か小か、高いか低いか、長いか短いか、の2点の動きのみしかまだ発達していません。作品の中にも、そのような傾向がみられますね。











3歳児。おともだちの作品を見ています。おともだちと比べて(大人が思う、他人と比べる、という意味とは違います)見ています。おともだちのように、やってみたい、おともだちとは、違うものをつくりたい、など。
2歳児の、2点から、だんだん大きく、や、だんだん小さく、大きいと小さいの間、のような感覚がでてきます。作品も、2歳児とくらべると、立体的になっていますね。







こちらは、5歳児。手先がしっかりしてきているので、ひとりで針なしホッチキスを使うことができます。作りながら、おともだちとお話しています。
 
 「もっと、ここをこうしてみたい」「もっと長く作ってみたい」「うわあ!ドキドキする!」「ネックレスに、蛇腹をつける」「どうしたら、もっとつなげることができるかな」

楽しみながら集中すること、楽しいから集中できること、すばらしい子どもたちです。







こちらは、2歳児。お母さんといっしょに、色の組合せを楽しんでいました。出来上がった、かんむり(?)をうれしそうにかぶって歩いていました。



  これは4歳児。「O」になった。


  「B」にも見えるし、「8」にも見える。


  「あ、そうだ、こうすれば、9になる!」



 この男の子は、じっくりと考えてから取り組むことができる子です。リトミックもそうですが、考えることが大好きです。下の写真のように、最初は、穴の開け方をじっくり観察してから取り組んでいます。


 (2014.7.5)また追記します。