2013年1月5日土曜日

「才能のある人はできることをするが、天才は、しなければならないことをする」脳科学者茂木健一郎さん

“しかし、別の見方をすれば、そのときデレクは「常識」にとらわれていなかったと言うことができる。目が見える人は、どうしても視覚情報にとらわれてしまう。人間の脳の情報処理は視覚優位であり、そこで提示される豊富な証拠に頼り切ってしまうところがある。それに対して、デレクは視覚に頼らない分、ピアノの弾き方についての既成概念に制約されることがなかった。”
 「挑戦する脳」茂木健一郎著より引用

天才ピアニストデレクさまのことが書かれているところです。

“そもそも、通常の音楽教育において、私たちは視覚に頼り過ぎているのかもしれない。”

“私たちは、脳の回路から一つの機能が失われることを、あるべきものの「欠損」としてとらえがちである。しかし、実際には、脳の機能は「あちら立てればこちら立たず」の「トレード・オフ」の関係になっていることも多い。”

 リトミックの教室に限らずですが、世の中にはひとりとして同じ人はいません。たとえば、赤、白、黄色のボードを使って、リズムの即時反応のレッスンをしようとする時。ひとりの子は、赤と白だけを持ってくる。ひとりの子は、赤白黄色のボードを頭の上に乗せて歩く。ひとりの子は、それどころではない(笑)。
 その姿を後ろで見ているお母さま方は、「先生の言うことを聞きなさい」と思うでしょう。思うはずです。それは、先生の言うことを聞くことが、いいことだ、とわかっているからです。なんで、先生の言うことを聞くことがいいことですか?となると、どうでしょう。
 それなら、リトミックのレッスンの時間は何をしてもいいのか、という疑問を持たれると思いますが、少なくても、わたしのリトミックのレッスンは、厳しいです。レッスンに通ってくださっているお母さま方は、そんなことないですよ~、と、ここで大笑いされていると思いますが、厳しいのです。






あるリトミックの先生がおっしゃったことです。この絵が、リトミックの自由だと。どうでしょうか。何が「自由」でなにが「個性」か、お気づきになったでしょうか。

幼児期は(幼児期に限らずですが)特に、型にはめること、が重要だと思います。それは、無理やり親の言うことを聞かせると、親の思うどおりになるから、ということではありません。型に入れることで、それでも、はみだすところが出てきます。その部分が「個性」です。
 以前、宗教学者である釈徹宗先生の講演会におじゃました時におっしゃっていました。
毎日同じことを同じように繰り返す修行をしても違いがでる。それが個性だ、と。(聞き間違っていたら、ごめんなさい。)

そうすると、先ほどのイラストにある、12時(ちょっと過ぎていますか?)にテーブルを前にして椅子に座ること、が、型です。子どもたちが、選んで食べているものはなんでしょう。海老フライだったり、ハンバーグだったり、いろいろです。
 リトミックは、この時間にこの教室のこの場に集まること。そこから、自分の選ぶものはなんでもよろしい。あなたが感じたことは、あなたにしかわからない。そして、その感じたことは、次の瞬間に変わる。明日も変わる。昨日と違う。
 だから、仕事を選ぶ時になって、自分探しや、適職診断をして、わたしにあっている仕事はなんだろう?個性を重視しないと、などと、自分探しの旅に出ることは、まったくもっておかしなことだと、わたしは考えています。みつかるわけがないのですから。
 
 “古くから「三つ子の魂、百まで」というじゃないか。それは話が違う。昔の人は「同じ私」なんか、あるわけないと思っていた。それが証拠に、名前がどんどん変わったのである。そういう時代に、そうはいっても、変わらない部分があるなあ、と感銘したのである。だから、「三つ子の魂、百まで」とわざわざいうのである。「本質的に変わらない私」、そんなものが常識になったおかげで、子どもが悪口をいわれたからと、友人を指す世の中になった。”
 「こまった人」養老孟司著より引用

そういうことを知っていても、忘れるんです。親ですから。あなたのことを知っているのは、母のわたしだけですよ、という、愛(よくわかりませんが)の固まりが執着になって、知っているのはわたしだけなのに、この子は言うことを聞かない!悪い子だわ!と、怒りにつながってくるのだと思うのです。
 これを、そうか、この子はいったい何を考えているんだろう、どうしてそういうことをするんだろう、と、子どもを見守ること。見守る、ということは、わかっていてもなかなかできないものです。
 その先の、この子は、今これをやろうと選んでいることは、何か意味があることに違いない。お母さまよりも、この先を生きていく子どもたちです。この先の未来になにがあるのかわかりません。きっと、今するべきことは、なにかをわかっているのではないでしょうか。
 固定概念をはずす、というと、なんだか、負けのような感じがしますが、その方が、お母さまの心が穏やかになります。穏やかになると、子どもが笑顔になります。
 
 赤、白、黄色のボードを、赤、白、しか持ってこなかった。

黄色を選ばなかったのは、なにか意味があるのです。そこに脳とリトミックの身体性という重要な部分があるのですが、まただらだら書いて長くなりましたので、次にお会い出来る時があれば、その時に。

すまいるリトミック
川田智子

リトミックについて、ということを、ちょっと離れてコラムを書いています。

よろしければ、どうぞ。


日本人にあったリトミックを。今年もよろしくお願いします。





2013年1月3日木曜日

「これが日本の現状です。」服部克久さんの言葉から。幼児教育を考える。

レコード大賞の審査員服部克久さんの言葉を、目にしました。

 「これが日本の現状です。」

どんな思いがあって、どんなことを考えて、この言葉を発したのかは、
服部さんではないのでわかりません。服部さんの思いを察するのではなく、ここから、
今、わたしが個人的に思っていることをつらつらと書かせていただきます。

 “我々の文化は幼い子供たちが音楽に触れることをしだいに軽視しつつあるようである。学校予算が削減される時は、まず削除されるのが常である。生活の質を高めるうえできわめて重要なこれらの三つの基礎的能力が、現在の教育風土の中では普通余分なものであると考えられていることは非常に残念である。
音楽にきちんと触れることを妨げられた子供たちは十代になると、膨大な心理的エネルギーを彼ら自身の音楽に注ぎこむことによって、子供の頃に剝奪されたものを埋め合わせようとする。彼らは、ロックグループを編成し、テープやレコードを買い、意識をより複雑に育てる機会の貧しい下位文化の虜になる。”
  フロー体験喜びの現象学より引用

音楽として、今流行りの音楽が悪い、と思ってはいません。あのような、リズムが複雑なものを好む現代の子どもたちは、リズム感はとてもいいと思っています。もちろん、わたしも大好きです。AKB48の曲なんて、付点がいっぱいついていて、簡単に楽譜にすることはできません。耳がよくなっていると思います。

 “子供が音楽を教えられている時ですら、おきまりの問題が生じる。”

ここからが、本題だと思います。

 “どのように演奏するかが強調されすぎ、彼らが何を経験するかは無視されすぎている。バイオリンの上達を子供に押しつける親は、子供たちが現実に演奏を楽しんでいるかについては関心を示さないのが普通である。彼らは世間の注目を得、賞をとり、カーネギーホールの舞台に立てるまでに巧みに演奏することを望む。そうすることによって彼らは音楽をそれが意図するものとは逆の方向へと歪め、心理的無秩序の源泉に変えてしまう。音楽行動への親の期待は、しばしば大きなストレスを、時には完全なる挫折を産む。”

 商業的なものへ、音楽が流れてしまうのではないでしょうか。商業的、というのは、音楽を使って、利益を生む人達のことです。なんども言いますが、それは悪いことだとは思っていません。

 教育を受ける目的が、この子が幸せになるため、ではなく、
少ないお金で、より効果のある教育を選ぶ目的になってる、ところが、問題だと思うのです。

 たとえば、わたしはリトミックは、人の気持ちがわかるやさしい人になってほしい、と、一番の教育目標にあげています。

 “どんな場合でもすぐに他者と同期できる人間のことをわれわれは「大人」と呼びます。「他者の気持ちがわかる」人です。“「街場の文体論より」内田樹先生

 21世紀の社会に役立つスキルを身につけること。これも、いいと思います。
でも、それが一番であってはいけない。

お金があるから、経済成長した日本の国の人たちが、幸せですか?の問いに、%は忘れてしまいましたが、
「子ども格差――壊れる子どもと教育現場」という本で、尾木直樹さんが書かれています。

 日本人は、幸せではないという回答が多い。

それでは、あなたの子が、お金があっても幸せではないという人にするか、
お金はないが、とても幸せだという人にするか。

経済成長することが、幸せにつながるわけでは、ないと思うのです。

もういちど考えてみましょう。

人を蹴落として、1番になること。がんばれ、と言うこと。その、がんばれは、
何のためのがんばれなのか。

そういったちょっとだけ子どもの視線を上から見たり、下から見たり、横から見たりする目線を変えることで、お母さま方のこれからの子どもへの幸せ感が変わってくるのだろうと思います。

リトミックのレッスンで、みんなが出来ているのに、うちの子だけが出来ない、と嘆いていることは、
とっても残念でもったいないことだと、思っていただければ、わたしはうれしく思います。

脳科学から見た、茂木健一郎さんの言葉も紹介するつもりでしたが、
長くなったので、いつか、また。

子育てには、正解がありません。いっしょに、悩んでいきましょうね。


すまいるリトミック

川田 智子

2013年1月2日水曜日

日本人にあったリトミックを。今年もよろしくお願いします。

「慣習的な指導法の欠点は、生徒が学び始めた初期の段階-この時期は、頭脳と身体が平行して成長しており、頭脳は印象や感情を恒常的に身体に伝える時期(おそらく乳幼児期から児童期を指すものと思われる。)に、和音に接する機会を与えられないばかりか、生徒が感じた事柄を文字によって表現できるようになる時期まで保留されることにあると結論づけた。」
 エミール・ジャック=ダルクローズ



あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

12月にすまいるリトミック発表会を開催しました。子どもたちのたくさんの笑顔に包まれて、幸せな時間をみなさまと共有することができました。ありがとうございました。

去年は、もっと子どもとは、さらに音楽とは、そして日本の文化とは、を意識しながら、
子どもたちとレッスンをしてきました。
知れば知るほど、わからないところが増えてくるのがリトミック。でも、それもそのはずです。

リトミック教育では、音楽だけではなく、子どもにとっていい刺激を与え、そこから子どもたちが感じる。
感じたことを、身体を通して考える。その想いを伝えたいと思う。伝えたいと思ったことが、表現につながる。それには、集中しないと出来ないことをすることで、集中力が養われ、右脳と左脳をバランスよく使うことで、反応力も身につく、直感を大切にする心、記憶する力。
自分ひとりでは出来ないことを知ることで、人への思いやりも育つのだと思います。

リトミック教育は、人間教育。
人を育てる教育は、その子によってすべて違いますので、簡単ではないだけではなく、
効果は出にくいものだから。

さらに、西洋の動きだけを取り入れたリトミックでは、日本の子どもたちへのレッスンは限界を超えてしまいます。
日本は「静」の文化。バランスのよいレッスンで、今年も子どもたちひとりひとりの力を伸ばしていけたら、と考えています。

リトミック発表会のことは、ブログにも細かく書かせていただいております。
大興奮状態で書いているので、はらはらしますが、よろしければご覧くださいませ。

すまいるリトミックノート
http://smile-rythmique.blogspot.jp/

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@smiletomoko