2014年12月12日金曜日

リトミックでは考えることと、考えないこと、を身体で判断する

逆説的なタイトルをつけてしまいました。
子どもたちとのレッスンでの出来事を言葉にすることで、
伝わるかもしれないので、ちょっと綴ってみます。

どちらも今週のレッスンです。

まず、すまいるリトミック5歳児クラス。


森の動物たちに、サンタさんがプレゼントをしました。
プレゼントをしたものは?

くるみ にんじん はぶらし マフラー かんむり

全て、リズムにあてはめて

ティティター ターター ティティティティ ティティター ターティティ

それを、リズム積木で並べる。

ここまで、すんなりと子どもたちだけで作る。
続けてリズム唱で言葉とクラップをする。

2人が、1小節ズレて終わった。
なにをしたのか聞いてみたら、笑いながらこう言うんだよね。

「カノンをした」と。

びっくり。自分で考えて行動。

その積木を、上下にズラす男の子。
これも、なにをしているのか聞いてみたら、笑いながらこう言うんだよね。

「みんなで、分かれて、やろうよ」と。


つまり、

A ティティター    ティティティティ      ターティティ 

B      ターター        ティティター

Aのグループと、Bのグループで、交互唱のようにやろうと言う。

びっくり。自分で考えて行動。

それから、こんどはこうしたい、こんどはあれをしよう、と
おともだちから、たくさんの意見が出てくる。
みんなで楽しめる「遊び」を、どんどん作っていく。
遊びには、ルールが必要で、そのルールも少しずつ高度にしていくことで、
楽しみを増やしているのね。

ここまでは、今までのレッスンの中から、経験を通して子どもたちが身についたこと。
もっと楽しい遊びをしよう。

右手と左手で、同時に違うリズムが流れていくことをやってみる。
あ、何年か前に、男の子がやってくれた動画があったはず。あったあった。






子どもたちの目の色が変わった。
「むずかしいよ」「できないよ」
それでも、真剣に取り組む姿。

終わってから女の子が、
「せんせい、どうやったら、できる?」
と聞いてくれた。

考えないこと。笑。

先日この日の学校に伺った時に、甲野先生が、
「火事場でおばあさんがタンスを担ぎ上げる時、こんな重い物を持てるかしら、
と、考えたら持てないでしょう。逆説的な言い方になるが、考えないことです。」

できるか、できないか、を考えているうちは、できない。
先に、カノンでクラップをしたり、上下に積木を並べたりする時は、
きっと、できるか、できないか、は考えずに、子どもたちはやっていたのだと思う。

それならば、考えずに行動できるようにするには、どうしたらいいのか。

同じことを繰り返して言うボケばあさんのようですが、
音楽的センスを、身体に身につけること、それには、
とりあえず、頭で考えずに、身体で判断できるように、
整えること、かしら。

そして4歳児。長くなったけれど、続けます。

5歳児が、サンタさんのプレゼントをリズムで並べてびっくりしたけれど、
4歳児のおともだちも、すらっと完成。これは、この子たちの持っているものが、
光って飛び出てきたのが、今が、来年か、の違いなので、できないからと言って、
焦ることでもないのね。

その後に、タイコを出して、同じ数で同じ拍を叩くことをやろうと思ったら、

 「せんせ、あれやろうよ、あれあれ、あおいボードとか、きいろいボードとかの下に、
おにぎり置くやつ!」

 「あ、それいい!あれ、やろう、あれ!おにぎりのやつ!」

オニギリ・・???おにぎり???

このクラスでは、ニュアンスの把握として、秘密の宝物探しをやったとき、
おにぎりを使ったことを思い出した。
さっそく、オニギリ探しに変更。こちらが考えていることと比べ物にならないくらい、
その時に、子どもたちが、やりたい、と考えたことは、とてつもなく素晴らしいことなのです。

ここでも、自分たちで遊びを考えて、自分たちでルールを決めて、自分たちで行動する。

今週選挙を控えて、慌てて読んでいる内田樹先生の「街場の戦争論」。

つまり、戦後ではなく、戦前になっているのではないか、
それには、この子たちが、どうしたらいいのか、どのように学びとる力をつけておかないといけないか。

 「せんせ?リトミックのオリンピックってある?」
5歳児の女の子。

リトミックはね、残念だけど、誰かと比べたり、何点とれた、とか、数であらわすことができないの。リトミックのオリンピックは、みんなのココ。ここね、お腹とか胸のあたり、ここに、できあがるやさしい心よ。

すまいるリトミック





2014年11月28日金曜日

同じ音楽の時間は流れない

同じことをお家でやって、と言われたけれど、出来なくて、
とお母さま。
こういうことか、とよくわかりました、ってね、
わたし、うれしくてね。昨日、レッスンが終わってから、言葉にしようと思ったけれど、
これも、伝えられなくて。
ここは、ノートなので、ざっくりとメモしておきます。




男の子が「もういちど」と言っていたことは、
五線カードに、ドレミファソラシド、の玉を置いた後、
鍵盤の上でも、ドレミファソラシド、を同じように指を動かした。

ひとりずつ、そして、そして男の子ふたりで、そして、
わたしもいれて、3人で。

ぴったりと3人の呼吸が合って、すっと、最後のドの音を弾き終えた時、
空気の中に丸い大きな風船のようなものが、ほわんと舞った。

男の子は、ここは憶測でどのように感じたかはわからないけれど、
この「ほわん」を、きっと「もういちど」とお母さまにお願いしたのだと思う。

前回のノートで、砂時計のことを綴ったけれど、
それと同じで、一度流れてしまった時間は、戻すことはできない。

音楽は録音再生機で何度も繰り返し聴くことができるようになって、
町には、消費を促すように、呼吸をはやめる音楽が流れ、
ヘッドフォンで自分ひとりの耳を聴き、
音楽と耳の間の距離がなくなり、自分の聴きたい音楽と耳の間を流れる音は、
雑音と排除され、より透明な、より繊細な自分だけの空間を作り出した。

音楽は、社会をそのまま映し出す。人がそれを求めているから。

求めているものを否定なんてしないし、それは音楽ではない、とも言うつもりもないけれど、それとは別に、幼児期に、様々な音楽の場を経験することで、
より人間らしい生き方が出来るのではないか、と、大げさだけど考えている。

人間らしさ、とは?

この「ほわん」だけに限って今思うことは、
人と人の間を流れる空間を生きる、
そのまた人と人をつなぐ、木や土や宇宙全体を生きる、

あらま、大きくなりすぎた。

でもきっと、お母さまに「もういちど」とお願いした男の子は、
今度、それを、どこかに求めながら、これから生きていってくれると思う。

どこで、どう、どのような形になるかは、
それは、だれにもわからない。
あとは、この子が選んでいくよ。

ああ、楽しみね。
ありがとう。

すまいるリトミック





2014年11月19日水曜日

砂時計からリトミックへ

先日、
「ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古」を観てきました。




その中で、砂時計が非常に印象に残っていて、
さっそく購入。



1歳児クラスから、小学生クラスまで、この砂時計をレッスンに取り入れてみよう。
(4歳児クラスと小学生クラスはこれから)

1歳児クラス。
じーっとみつめる。「はんたいにして!」もういちど、みつめる。

2歳児クラス。
息を止めるかのようにみつめているけれど、
それよりも、「ぼくの居場所確保」の方が、今は重要らしい。
自分の見る位置を、押したり、外したり、微笑ましい時間。

3歳児クラス。
「まんなかが、へっこんでいく!」
「ほんとだ!もう少しでなくなる!」
そして、
「わたし、きょう、服を2枚着てきた」
「わたしは、きょう〜・・・」と
わたしのお話が続く、砂時計3分間。

5歳児クラス。
この間映画を観てきてね、
砂時計ってね、人生のようで。
どんどん減っていくんだよ。時間は止められないし、
戻すこともできない、音楽といっしょだよね。

「その映画ってどんな映画?せんせ」

ああ、あのね、絨毯の上をね、一本のロープがあると思って、
歩いていた。

「こんな感じ?」

歩き出す子、2人。
おっとっと、そーっとそーっと、おっとっと、と言いながら。

砂時計の、砂が落ちたことを確認して、
「あと、どんなことやってた?」
と聞かれたので、ふいに思い出したことをやってみた。

円になって。
1.2.3.4,5,6,7,8,9,10~
順番は決めない、自分が思った時に数を言う、
でも、おともだちと声が重なってしまったら、1からやりなおし。

これがね、何がおもしろかったのか、
お腹抱えて笑っていたんだよなあ。
さらに、
「みんなでやろうよ!」とお母さまも呼んで、もっと大きな円に。

人数が増えれば、重なる確立も増えてくる。
それでも、大笑い。

さて、今日のレッスン終わり!の声をかけたら、

「時計周りに、順番に言おうよ!」と女の子。

そうだよね、そうだそうだ。それがいい。

お母さんも含めて、円になって、1,2,3,4,5,6,~を言う。

リトミックでは、相手に、呼吸を飛ばすように、ふわっと手で次の人に合図をする。
それをやりはじめたら、
順番に数えていった30ぐらいからかしら。

ふっと違う人に飛ばしたお母さま。(さすが)

それからは、右に左に、対曲線に、3人飛ばしに〜
ぐるぐると数がビートを崩さずに99に、

そして、最後の100を、
お母さまがわたしに飛ばしてくれたんだよなあ。

痺れるね。

「砂時計」の意味は、もっと違うところにあったと思うけれど、
何かひとつをみつめることで、呼吸を整える時間になるのではないか、
と考えた。

子どもたちといっしょに、砂時計をみつめている時間。
「いい時間」が、こうやって過ぎていくんだなあ、と。

そうそう、
5歳児クラス。レッスンが終わってから、
「お父さんとやる!」
「あした、お友達とやる!」

と、みんなの声。

お父さま、なんのことかわからないかもしれませんが、
1.2.3.4.~
どうぞ、よろしくお願いします。

すまいるリトミック




2014年11月15日土曜日

音楽に合わせて歩くことが出来ないということ


「われわれは、様々な場面で、まわりの人と同じようにふるまう、ことを強力に内面化している人間たちなのであって、それゆえ、変な人だと思われることを、ごく幼い頃から、非常に強く恐怖しているのだ」


絶賛コンテンツはなぜ増えるのか



(なぜか、大きなタイトルになってしまったけれど、気にしないで、先に。笑)

たぶん、日本の風土からそうなっているとどこかで聞いたお話。
そう、母は子のその姿を見ると、我が子は生きていけないのではないか、と
絶望的な気持ちになる。

先日のリトミック研修で、「自分で自由に歩いてごらんなさい」というのがあった。
リトミックの先生方ばかりなので、そりゃもう、ごちゃごちゃな空間が出来上がった。その次に「自分と同じ歩き方をしている人を探して一緒に歩きなさい」と。みつけることは簡単で、すぐに一緒に歩いた。
ただ、ここからが大変。どうしても、一緒に歩くと、その人に合わせてしまう。同じ歩き方をしている人をみつけて歩いているのだから、合わせる必要はないはずなのに、合わせてしまう。
同調なんとか(忘れた)というものだと思うけど、自分のテンポを守り続けること、合わせることよりも、合わせないことの方が、なかなか辛いものだ、と。

ここに、音楽なんか流れたら、狂い出すくらい歩けないだろうなあ。

ただ、子どもが、音楽に合わせて歩けない、というのは、そこまでまだいろいろと達していない身体の部分があるだけで、そんなに頭抱えて心配することではないと思っている。
だから、リトミックの即時反応の時に、音楽が止まったら、身体が止まることができた、というのは、
なにかとなにかがつながった、ということで、それほど、大喜びする必要もないのね。
音楽は、無視するよりも、猛毒になって襲いかかる時もあるから、そちらの方を気をつけた方がいいね。
ほら、今、そこでも音楽が流れているでしょう?


2014年11月14日金曜日

子どもはなぜ、怒るのか

3歳児クラスの女の子が急に(子どもはいつも急ですが)、

「あれやりたい!」
「お水を入れて、歩いたやつ!」
「スイカに、お水を入れて、そっと歩いた!」

スイカは、この子の中で、何かとつながって記憶として残っているのでしょう。
1年前、2歳児クラスでレッスンをした、
「そーっとね」のレッスンのことだと思います。

お母さんにお水を運んであげよう!というもの。
この下の写真では、子どもがコップだけを持っていますが、
お盆にのせて、お水を運びます。運ぶ先には、お母さんが待っていてくれます。





午前中、1歳児クラスの男の子のお母さま。

 「今、家で、食器を台所に運んでくれることが好きなんです」

先程の3歳児の子と違って、やっと歩き出した男の子。思わず、
食器壊されてしまうんじゃないかって、心配じゃないの?と聞いてみましたら、

 「お父さんが、持って行って、って言ってくれているから」と。
 すばらしいお父さま。

そして、3歳児のお母さま。

 「家中、セロハンテープだらけです」

と笑っておっしゃっている。
またまた、それ、嫌じゃないの?と聞いてみましたら、

 「嫌だけど、やめて、と言ってもやめないし。おもしろそうにしているから。」と。


どちらのお母さまも「わたし」が主語ではなく、「子ども」が主語。

「子ども」は、自立したい、と日々伝えています。自分でやりたい、自分でしたい。
子どもが、急に大きな声で泣き出したり、怒り出したりするのは、その子の気質にも違いはありますが、だいたい、自分でやりたかったのに、大人がそれをやってしまった、ということが原因だと思います。

それならば、自分でなんでもやりなさいよ!と投げ出してしまうと、
自分でやりたいのに、自分でできない、なんとかしてくれよおっかさん!(笑)と、
もっともっとひどい怒りになってしまいます。お母さんに怒っているのではありません。
自分に対して、怒っているのでしょう。

その時に、ここはひとつ、大人が大人になって、一呼吸入れて、
言葉を使わずに、手の動きをだいたい2倍遅くして、見せてあげてください。

子どもは、お母さんの言葉、お母さんの動き、が、はやすぎるのです。
どうでしょう、大人から見たら、新幹線が走り去るような感じなのでしょうか。

子どもは、自分がそれをやりたければ、見ます。じっくり見ます。
レッスンの時に、ハサミを持つ時、スティックを持つ時、のりを指につける時、
じっと見ているでしょう。

まずは、こちらが落ち着いて。落ち着くには、動く。整える。

このあたりは、またいつの日か。







2014年10月8日水曜日

2014年度リトミック発表会「フェリックスの手紙」

2014年8月30日土曜日

夏のピアノコンサート おともだちと音楽をすること

前回はリトミックを指導した、ところまで。

2ヶ月ほど前でしょうか。小学生クラスのおともだちに、
「弾きたい曲、好きな曲の楽譜を用意してきてね」
と伝えました。

自分の好きな曲を選ぶこと、楽譜を時間をかけて買うこと、
どこでどのようにして購入したかは、その子その子で違うと思いますが、
選んだ楽譜を抱えて教室にやってきました。




個人のピアノ指導ではできないところは、
みんなで音楽を共有しあうところだと思います。

一週間前は、おともだち同士で、弾き合いをし、話し合いをしてもらいました。

そっと後ろから見ていたのですが、
「1回目よりも、2回目の方が、よくなったね」
「きれいに弾けたね」
の言葉がたくさん。

「そこ間違った」「やりなおし」「もう一度」「もっとこうして」

という欠点を正すような言葉は聞こえてこなかったので、
ほっとしました。

当日の演奏の様子は、facebook秘密のページに動画を投稿しております。
すまいるリトミック教室のお母さま方限定のページですので、
ご覧になりたい方は連絡くださいね。

そして、次の日。ピアノコンサートを聴いてくれた5歳児の女の子が、わたしに言いました。
 
 「せんせい、きのう、すごかったね」と。

なにがすごかったか質問してみたら。

 「ピアノがみんな上手だった」

目をキラキラさせてお話してくれました。

音楽をする人、音楽を聴く人、という2つの立場を分けるのではなく、
なるべく、この中心の「音楽」を響きあい、空間を楽しめる状態がいいですね。

今度は教室以外でも、もっと身近に音楽がある空間を作りたいと考えています。

みんな、よろしくね。

すまいるリトミック




2014年8月29日金曜日

夏のピアノコンサート・小学生クラスのリトミック指導

今週火曜日すまいるリトミック教室で、夏のピアノコンサート、
小学生クラスのおともだち「が」お母さま方、コンサートに足を運んでくれたおともだちに、リトミック指導をしてもらいました。

先週この曲を使って、このねらいで、どうしたらいいのかを相談してもらいました。
どうも、30分ではまとまらなかったらしく、コンサート前に早めに教室へ来て、
打合せをこそこそとしていました。もちろん、子どもたちだけで考えました。

リトミックは、「結果」ではなくて「今」の経験が大切ですので、
逆の立場にたつことで見えること、考える事で、また新しいリトミックの見方が広がるのではないかという、淡い期待を込めていました。






この後、このままではおもしろくないので、ゲーム感覚でお母さま方にも挑戦してもらおうと考えました。 当日、この中から、今日の「ねらい」はなんだったのかを当ててもらいました。

 1.ビート(拍)  
 2.アクセント  
 3.テンポ  
 4.表紙   
 5.形式   
 6.音階   
 7.和音   
 8.調性  

(だったかしら・・・忘れてしまいました)


 小学生のおともだちは、どのようにまとめて、どうしようとしていたのかは、 また来週聞いてみますが、言葉も少なく、動きも少ない、目も動かない、状態でした。 
これは、想像していたことなので驚かなかったのですが、驚いたのは、 お母さま方と、3歳児、4歳児のおともだちの様子。 必死に、聴こうと耳を傾けて、楽しもうと楽しんでくださいました。ありがとうございました。


そして、もっともっと、こちらのねらいが外れた(笑)こと。それは、
お母さま方が、このような形でリトミックの指導が行われていたことということを、
知ることでよくわかりました、というお言葉をいただいたこと。

長くなってしまいました。
ピアノコンサートの様子は、次回に。

すまいるリトミック




2014年8月21日木曜日

音楽をすることと、ガードナーの多重知能理論

フレーズ感覚を身体感覚で。

教室の場の空気が、球体に感じたようなことを、
言葉で伝えることはできない。

その場にいた人が、経験できる音楽体験。

二人組になって、最初に歩く人、次に歩く人を、おともだち同士で決める。
(すぐに、お友達をみつけること、すぐに、おともだちと順番を決めること、も
リトミック)

8拍先に、お友達が歩く、歩いた通りに、次のお友達が歩く。
空間を視覚だけではなく、空間で感じて記憶できていること、
もちろん、数感覚も備わっていないといけない。
おともだちといっしょの空間を楽しむことも必要。


 


ビート感覚がすばらしくきれいに整っていたので、曲の途中で合図をかけた。

 「いっしょに」二人で歩く。

 「交代」順番を交代する。

そして、

 「ひとりで」ひとりで、歩いた。

この時!この瞬間!
様々に散っていく桜の花びらのような、空に舞い上がる風船のような、
子どもたちの動きから感じられた。

“ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーは、
「多重知能理論=MI論」を1970年から80年にかけて提唱している。
彼は、人間の知能とはその人が属している社会に適応していくプログラムで獲得する情報処理のための潜在的な能力だとし、知能テストで測られるような論理数学的知能はそのひとつに過ぎず、人間はみんなもっと多様な知能を持っているという。
ガードナーが提唱した知能とはこのようなものだ。

 ・言語的知能 話し言葉・書き言葉への感受性、言語の学習、運用などを司る知能
  
 ・論理数学的知能 問題を論理的、科学的に分析したり、数学的な操作を行う知能

 ・音楽的な知能 リズムや音程・和音・音色の識別、音楽演奏や作曲、鑑賞のスキルなどを司っている知能

 ・身体運動的知能 身体全体や身体の各部位を課題の解決や創造的表現のために使う知能

 ・空間的知能 空間のパターンを認識して操作する知能

 ・対人的知能 他人の意図や動機・欲求を理解して、他人との関係をうまく築く知能

 ・内省的知能 自分自身を理解して、自己の作業モデルを用いて自分の生活を統制する知能

 ・博物的知能 自然や人工物の種類などを識別する知能 ”

「本当は怖い小学1年生」汐見稔幸著より 

たまたま昨晩読んだ本。

5歳児がリトミックをした内容が、すべて整っているように思いませんか。
どれかひとつでも欠けていたら、あの動きは、できなかったでしょう。


すまいるリトミック 


2014年7月21日月曜日

色をいただく

ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。
  私は順番が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわなずにこちら側に宿すのである。
雪の中でじっと春を待って芽吹きの準備をしている樹々が、その幹や枝に貯えている色をしっかり受けとめて、織の中に生かす。その道程がなくては、自然を犯すことになる。蕾のびっしりついた早春の梅の枝の花になる命をいただくのである。その梅が抱いている色は、千、万の梅の一枝の色であり、主張である。
私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞きとどけたいと思う。その色と他の色を交ぜることはできない。梅と桜を交ぜて新しい色をつくることはできない。それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである。
化学染料の場合はまったく逆である。色と色を交ぜ合わせることによって新しい自分の色をつくる。単一の色では色に底がない。化学染料は脱色することができない。自然が主であるか、人間が主であるかの違いであろう。
「色を奏でる」志村ふくみ・文 井上隆雄・写真

子どもが主であれば、子どもの色が、染まるのでしょう。




  志村ふくみさんの「一色一生」も、開いています。ひさしぶりに、美しい日本語に出会いました。すっと、背筋が伸びる思いです。



2014年7月20日日曜日

音楽する身体 

音楽の授業で子供の音楽する姿は自然ではない。子供が、能面のような表情で死んだような身体で音楽活動をするのなら、そのような不自然な授業は教師の責任以外の何物でもない。子供のやる気を掘り起こす指導をしていないからだ。
 「音楽する身体 音楽科教育における大いなる課題 松田京子」2009より
6年 男子児童作文
(中略)4月、新しい音楽の先生の出会いから始まる。・・略・・まず、一人ずつ自己紹介した。ぼくは「音楽は、教科とは考えていません。ぼくは、K校を受験するつもりです。N塾でも、偏差値は高いんです。音楽は、何の興味もありません」と言った。言い終わって、「どうだ、言ってやったぞ。さまあみろ。おこれ。おこれ。まあ、音楽の先生がおころうが、ぼくは動じるものではない。」「ふん」という挑発的な心ですましていた。しかし、先生はおこらなかった。「I君、人間、学ぶべき時に充分に学ぶことはすばらしい。知恵を養い、教養を高め、目標に挑んでいくことは価値あること。これからも先生も応援します。」
 この言葉を聞いたぼくは、驚いて、後ろにのけぞり、尻餅をつきそうな思いだった。「塾の点数を最優先するぼくを、なぜおこり、嫌な目でみないんだ。」こんなことがあってから、ぼくは、週二回の音楽の授業を楽しみに待つようになっていく自分に驚きながらも、信じられないくらい音楽にひかれていった。
 そして、音楽の楽しさ、深い味わい、神秘性、そのようなものを心から感じられるようにぼくの心は、少しずつ目覚めていった。ぼくだけでなく、クラスのみんなも、音楽に対する態度、関心、接し方が変わってきた。・・略・・なにより、ぼくを中心とする音楽嫌いだった人たちも今やのめりこんで音楽を表現していくようになった。1学期の中頃、担任のA先生がぼくたちの歌を聴きに来てくださった。先生は、聴き終わった後、絶句して、泣いた。5年の時からの担任のA先生が、生まれ変わったぼくたちの歌っている姿を見て、歌を聴いて、なぜ泣いたか、ぼくはとてもよく分かった。
 ぼく自身、どんどん音楽に引き込まれていく自分に驚きながらも満たされた気持ちの日々だった。
 リコーダーの試験があった。ぼくは、いつもぼくを認めてくれる先生をがっかりさせる演奏をしたくないと思った。でも、いくらその気持ちがあっても、3、4年生の時、ろくにリコーダーの練習などしてなかったぼくにとっては、急にすばらしい演奏をしようと思っても無理な話だった。途中でつっかえたぼくは、頭の中が真っ白になり、指がガタガタと震え、無惨な姿だった。ぼくは、心の中で「何だ。リコーダーも満足にふけないのか
と思われたと思った。しかし、先生は、試験の後の講評で「I君は、自分の番が来るまで、他の人が演奏している時、いっしょに指を動かして一生懸命練習していたね。先生は見ていたよ。君は、より美しく心をこめて演奏したいという気持ちを溢れさせて試験に臨んだ。ガタガタ震えるくらい全力で必死にがんばったね」と言ってくれた。(中略)
ぼくは、試験の後、皆で「つばさをください」を歌った時、目をつぶって、歌の内容を浮かべながら、体をスウィングさせて思いきり歌った。心の中に涙が溢れた。(中略)ぼくは、今までで初めて、上手に吹きたいと思って吹いた。それをわかってもらっただけで十分だった。(後略)

 
6年児童作文(2002)音楽鑑賞教育復興会作文コンクール入賞作文より

わたしも、泣いた。


2014年7月19日土曜日

人間の体はすばらしく精巧な機械です。心はその運転手です。日本のリトミック研究者 小林宗作先生

リトミックは体の機械組織を更に精巧にする為の遊戯です。
リトミックは心に運転術を教える遊戯です。
リトミックは心と体にリズムを理解させる遊戯です。

リズムは不思議な力で人生と宇宙を支配しています。
リズムがわかると音楽や舞踏、絵や書等がよくわかるようになります。
それらのものは等しくリズムを生命とし要素としているからであります。

リトミックを行うと性格がリズミカルになります。
リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに自然の法則に従います。

リトミックは芸術的体操でありますから、衛生的体操のもたらす健康に併せて、
感情を近いする真の文化人の健康体を獲得することが出来ます。

文字と言葉に頼りすぎた現代の教育は、子供達に、
自然を心で観、神の囁きを聴き、霊感に触れるという様な官能を衰退させたのではなかろうか。

小林宗作

何年も前から、読むと決めてメモをしておいた本。


黒柳徹子さんが書かれた本「窓際のトットちゃん」の先生が、小林宗作先生です。
小学校の先生をされていた時に、
「音楽教育は、小学校からでは遅い、文部省の教育過程にのっとっていては本当の音楽教育は出来ないのではないか」と非常に疑問を抱くようになります。
そこで、ヨーロッパに渡り、ダルクローズに直接指導を受けました。
ルソー研究所にも立ち寄っています。








感謝です。金子君。君への感謝のいくつかがある。
子供を自然の中で育ててくれることが何より感謝だ。大きく子供らしく育ててくれることが感謝だ。自然の中で自然児にしてくれることが感謝だ。あの生活ぶりとリトミックを見るともう一度生まれかわりたい。動物園の猿みたようにし、お行儀のいいお人形にし、字でも早く教えることをいい幼稚園だと思っている世間の人々に腹が立つ。この間も、成城の幼稚園を退園した方が或る幼稚園を数回参観に行って「やっぱりここもダメだ。成城みたように遊びばかりして字を教えてくれない」と言ったそうだ。子供の生活の本領を知らぬ親にも困る。


その後、宗作先生は幼稚園自身の批判を加えながら幼稚園では何をすべきかを模索しながらまとめています。
「・・幼稚園の保育の内容が小学校の低学年の教育の内容と混同されてはいないか。幼稚園では概念的な智育は、これを行う時期ではないと思う。(これは当然なので、誰でもそう思うている事であろうが、実際になると私は安心していられない)幼稚園では後で大きくなってから智的に扱わるる時に、これを正しく理解する事の出来る感受性の基礎、即ち感性を醒し、発達せしむる為に、いろいろな生活経験内容を豊富ならしめて置けば良いと思う。(中略)幼児教育の内容は如何にしたらよいか。便宜上項目に分けて記述はするが、実際は項目に分ける事は出来ない未分化の状態で、すべてを扱わなければならないことを承知して置いて頂きたい。


こどもとリトミックの今日と明日 

戦時中でも、なぜ自由な学校運営が出来たのか。今、海外の教育がたくさん日本に入ってきて実践をしようとしているけれど、小林宗作先生は、あの当時に取り入れていた。

教育は、目先のことにこだわってはいけない。20年先を見なさい。

小林宗作先生の教え子たちは、今、輝いています。





2014年7月5日土曜日

すまいるリトミック.七夕レッスン.

もうすぐ七夕。毎年、すまいるリトミック教室では、七夕のレッスンに制作をしています。去年は、蜜蝋キャンドル、おととしは、紋切り遊び。
今年は、こちら。





1歳児、2歳児は、和紙の紙で、指先の触覚感覚を楽しみました。
「ざらざら」「ふわふわ」「ぼこぼこ」「ざわざわ」
日本語のもっているリズム感は、そのまま音楽になりますね。



それでは、
子どもたちの作品を紹介します。全員のお写真を撮ることができなくてごめんなさいね。









4歳児と5歳児は、空間感覚が養ってきているんでしょうね。立体的なものを造ったり、
「新幹線」や「電車」など、作りながら、何かに見立てていました。



1歳児は、穴があくこと、紙が切れること、形が変化すること、に興味津々。






2歳児は、「長さ」にこだわっていました。
つなげると、長くなる。2歳児は、大か小か、高いか低いか、長いか短いか、の2点の動きのみしかまだ発達していません。作品の中にも、そのような傾向がみられますね。











3歳児。おともだちの作品を見ています。おともだちと比べて(大人が思う、他人と比べる、という意味とは違います)見ています。おともだちのように、やってみたい、おともだちとは、違うものをつくりたい、など。
2歳児の、2点から、だんだん大きく、や、だんだん小さく、大きいと小さいの間、のような感覚がでてきます。作品も、2歳児とくらべると、立体的になっていますね。







こちらは、5歳児。手先がしっかりしてきているので、ひとりで針なしホッチキスを使うことができます。作りながら、おともだちとお話しています。
 
 「もっと、ここをこうしてみたい」「もっと長く作ってみたい」「うわあ!ドキドキする!」「ネックレスに、蛇腹をつける」「どうしたら、もっとつなげることができるかな」

楽しみながら集中すること、楽しいから集中できること、すばらしい子どもたちです。







こちらは、2歳児。お母さんといっしょに、色の組合せを楽しんでいました。出来上がった、かんむり(?)をうれしそうにかぶって歩いていました。



  これは4歳児。「O」になった。


  「B」にも見えるし、「8」にも見える。


  「あ、そうだ、こうすれば、9になる!」



 この男の子は、じっくりと考えてから取り組むことができる子です。リトミックもそうですが、考えることが大好きです。下の写真のように、最初は、穴の開け方をじっくり観察してから取り組んでいます。


 (2014.7.5)また追記します。





2014年6月10日火曜日

子どもたちの100の言葉とリトミック

レッジョ・エミリア市の挑戦2001 「子どもたちの100の言葉」佐藤学監修
DVDが朝に届いて早速見ました。
レッジョ・エミリアの本を開くと、子どもたちの作品に驚きます。驚きの理由が、このDVDの中からまた知ることができました。

まずは、親、子ども、専門性を持つ保育者の3点の共同体。
そして、子どもを囲む広い空間環境。

何度も何度も言っていますが、
大人だからといって、何を知っている。大人は子どもよりも偉い人ではない。どうして子どもに教えようとするのか。

子どもを見れば見るほど、子どもは大人よりもたくさんの言葉に出来ないくらい素晴らしいものを持って生まれてきている。




ローリス・マラグッツィの言葉
 冗談じゃない百のものはここにある
 (子どもは百倍もその百倍もその百倍も)
 けれども、その九十九は奪われている。

 学校の文化は 頭と身体を分けている。
 そして、子どもにこう教える。

 手を使わないで考えなさい。
 頭を使わないで行動しなさい。
 話さないで聞きなさい。
 楽しまないで理解しなさい。

マラグッツィは、ピアジェが所長を務めるスイスのルソー研究所で発達心理学を学んだ経験がある。
これで、リトミックとつながる何かをみつけた。

“ジャック=ダルクローズは、当時E・クラパレード教授のいるジュネーブ大学心理学教室に何度も足を運び、また、クラパレード教授もダルクローズ研究におもむいて実際に教育研究に参与した事実を、現ダルクローズ研究所長、ドミニク・ポルテ教授からきいた。クラパレード教授は、当時二十五歳のジャン・ピアジェをルソー研究所の主任教授として招聘している。そのピアジェはのちにジュネーブ大学の教授として在籍している。これらの事実から、何らかの意味でジャック=ダルクローズも影響をうけていることは間違いないことと推定されるが、ピアジェの心理学で主張されている「いくら印象あざやかなものであっても、見ただけ、聞いただけではイメージにはならない。感動したものに運動がともなわなければイメージになり得ない。」ということを知るにつけても、ジャック=ダルクローズのリトミックにその共通性を見出すのである。”エミール・ジャック=ダルクローズより引用

イタリアの、レッジョ・エミリアの幼児教育を、そのまま日本の幼児教育に置き換えることは、まず困難なことだと思う。
とにかく、今日、明日と過ごしている、二度と戻ることができない幼児期を過ごしている子どもたちに、何が出来るか。

せめてレッジョ・エミリアの教育環境のような広い空間を、
大人の心の中に持つこと。そこからしか、子どもを真に受け止めて、見ることは出来ない。

レッジョエミリア教育について、学び続けます。まだまだこれから。

2014年5月22日木曜日

なぜ、リトミック5歳児クラスのレッスンで、目隠しをして歩いたか

思いついた時に、あちらこちらに書いたことを、まとめてみます。読みにくい、意味がわからない、つながらない、とは思います。メモをした紙を、クリップでまとめてみたもの、と考えてください。

暗闇体験「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」も先日体験してきました。


・きっかけ
5歳児クラス。空間が少々取りにくい子が多い。人の後ろにぴったりくっついてしか歩けない。座っていても重なってダンゴムシのようになる。そこで、目に頼りすぎているのかもしれないと考えて、アイマスクを探していたら。これがみつかってねぇ。 

モンテッソーリの「秘密袋」をやってみる、ということも考えたけれど。これは、2歳児後半ぐらいかなあ。スマホのようなつるつる画面を扱う子が多くなってきたから、4歳児ぐらいでもいいかなあ。