親指の重要性 モンテッソーリ教育「縫いさし」と武術家甲野先生から
の続きです。ダラダラいきます。
子どもの手が使えないから、強制して矯正しようとしているわけでは全くありません。それは、先にお話したように、何が正しいかわからないから。変わり続けていく(ようで変わっていないのですが)世の中でまた新しい道具や新しい発想が作り出される過程だから。だから、お子さまの手を見て悲観的になったりする必要など、ないです。
手を使えないということは、どういうことかを考えていただき、それから、子どもたちがどっやったらやる気をだすか、やる気とはなにか、どうしたら意欲が湧いてくるか、そこに斜め横に座っていっしょに歩いていくような姿勢を考えていきたいと思っています。
勢いで懇親会に参加したものの、甲野先生はわたしの中では、この世に降りてきている時は人間の身体をしているけれど、実は忍者か仙人かと思っているので、それはそれは緊張しました。でも、今、忍者(笑)に聞いておかないといけないと思ったわけです。
「ボールもできないでしょ? 」はい。ボールも、そういう子は苦手です。言葉も苦手です。「それは、手を使ったことをしていないからだよ」
危険を回避することの裏には、犯人はだれだ、変な責任探しブーム(?)もあるかもしれません。原因を探したらあれもこれもと出てくるのですが、でも、そんな世の中だからこそできる子どもたちの生き方があるはずです。
子どもが興味を持ったことから学べることを本にしてくださるとのこと。これから待ち遠しい毎日が続きます。
「自由とは、今置かれた環境の中で、自分が納得できることを探すことです。」
これはリトミックが自由である、という意味と同じです。何をしてもいいのではありません。もちろん型があります。おともだちもいます。時間も決まっています。場所も同じです。その中で、子どもたちが、どうしたら納得できるような動きを作るか、子どもの場合だとその行為は、遊びになるでしょう。
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