2012年10月22日月曜日

会話を音楽と考えると、楽しくなる

twitterの調子が悪いのかしら。うまく表示出来ないので、
こちらに書かせていただきますね。

茂木健一郎さんの連続ツイートです。

かた(1)滞在中のローマのホテルで、テレビをかけっぱなしにしてこの連続ツイートを書いている。今回は、もっとイタリア語の音に慣れようと思って、できるだけかけるようにしている。意味はよくわからない。ただ、そのリズム、響き、イントネーションが、「音楽」として聞こえてくる。

かた(2)昨日、バチカン庭園を歩いたときも、イタリア語でしゃべるガイドの声を、ずっと無線のイヤフォンで聴きながらいた。時々言葉が拾えて、その頻度が上がっていく。しかし、そのイタリア語の習得に意味があるのではなくて、「音楽」としての音に触れることに、主な意義があった。

かた(3)人は、誰でも一人ひとり「楽器」である。発話するということは、すなわち、一つの固有のリズム、イントネーション、響きを持つ「音楽」を奏でるということである。日本語という言語の持つ固有の性質もあるけれども、そこに「個性」が付け加わる。そんな認識を持つだけで、世界が広がる。

かた(4)コミュニケーションとしての会話は、「音楽」としての性質を持っている。同じ意味を伝えているのに、心地良い印象を与えることもできるし、不快な時もある。自分が、相手に意味を伝えているだけでなく、同時に音楽を奏でているという認識を持つことで、「技術」を磨くことができる。

かた(5)落語家は、話のリズム、間などを一生磨いていく。だから、そこに音楽性があるということはわかりやすい。問題は、発話する時、自分が「楽器」であるという意識が十分にない方が多いということだ。そこには、失われた機会があり、向き合うべき課題がある。十人いれば十通りの楽器があるのだ。

かた(6)そして、会話は、二人の人間がそれぞれの「楽器」を持ち寄る、「合奏」行為でもある。響きがハーモニーとなるのか、あるいは不協和音となるのか。時に、ギシギシと軋んだとしても、それが一つの味わいでもある。三重奏、四重奏、オーケストラによる合奏もある。指揮者は大抵の場合いない。

かた(7)発話を、「音楽」としてとらえることは、特に、外国語修得においてはきわめて重要である。例えば、日本人が英語を話すときに、意味は十分にとれていても、発話される英語が、「音楽」として変調している場合がある。完全にはできなくても、一つの「演奏」であるという認識を持つべきなのだ。

かた(8)もっとも、日本語なまりの英語にも、独特のリズム、イントネーション、響きがある。場合によっては、それが一つの魅力になる、ということもあるかもしれない。フランス人の英語、中国人の英語、すべて「音楽」が異なる。そんな意識で世界のさまざまな人とコミュニケーションすると、楽しい。


かた(9)日本人同士であれ、外国人とであれ、会話を「音楽」としてアプローチすることの効用は、意味の正しい/正しくないではなく、音に触れる「楽しみ」を基礎とできること。もっと自由であっていいし、もっと磨かれてよい。日々が、ストリート・ミュージシャンとしての演奏機会となる。



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