から、5歳児の男の子が
「ぼくは、この折り紙のところに、もっと、ナニカを足してみたい」
という発言がありました。そこから、OHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使えば、
いろいろ足したり引いたり出来るかもしれない、とやってみたことをこちらにまとめてみます。
先に結果をお知らせしますと、「この折り紙のところ」よりも、もっと深い光と影の世界を子どもたちはみつけて、自分たちで作り上げていきました。
■こちらは5歳児ではなく、2歳児です。
教室に置いてあった謎の機械に興味津々の男の子。お父さまも興味津々。
2歳児は、空間の感覚がまだないので、お父さんといっしょに見えた「りんご」を作って、
それを取って食べる、という模倣活動を行いました。
お父さんとおさんぽをしていたら、大きなりんごの木をみつけました。どんなりんごが、なっている?
こんなりんご、あんなりんご、ぶどうもある!
りんごは、高い高い木にあります。(高音)とっていれて、とっていれて(2拍子)。木の下にも落ちていました。(低音)とっていれて、とっていれて(音の高低)。
もっと、もっと、高いところにも、りんごをみつけたよ!
どうしよう、とどかない。お父さんが、だっこをしてくれました。おいしいりんご、ありがとう。
9月26日 すまいるリトミックfacebookページより
■4歳児
光を通して見える物の変化を楽しんでいました。
「屋根から、煙がでていま〜す!」
「ここにピンクをたしてみると、どうなるかなあ、と思って」
■4歳児と5歳児の様子をまとめた動画がこちらです。
■塚口5歳児クラス
絵本「かけら」から。光と影遊びで、あっちこっち跳びはねるおともだち。「近いと大きい!」「遠いと小さい!」「ちょうちょをつかまえよう!ジャンプ!ジャンプ!」「扉をあけよう!よいしょ、よいしょ!」「まるを、つかまえよう!」
右に動かすと左に動き、遠くに行くと小さくなったり、白いものが黒くなったり、光と影の世界にいると、幻想的な世界に入ってしまいます。子どもたちは喜んで走り回り、大きい人たちは、しばしこの世界に酔います。
9月29日 すまいるリトミックfacebookページより■江坂5歳児クラス
お母さまも妹さんもいっしょに、光と影、それに「色」と遊んでみました。
「赤と黄色を混ぜたら、何色になるかな」
「ぜんぶ混ぜたら、くろっぽくなった!」
色の不思議を経験した後は、影に注目。
「ぼくが、まえにいくと、どうなるのかな」
「◯◯ちゃん(妹)もいっしょに、こっちにきてみて!」
■江坂5歳児 先週、OHPで遊んで帰った男の子が、お家でプロジェクターを作ってきてくれました。うれしさのあまり写真を撮っていないので画像はないのですが、ビールの空き箱に虫眼鏡をつけたもの。そこへ、iPhoneを入れると画像が映ります。
「おかしいなあ、うまく映らないなあ」
「もうひとつ作ってきた、牛乳パックに懐中電灯を入れると、こうなるよ!」
iPhoneの光の強さを自分で調整して、虫眼鏡までの距離を縮めてみたり離してみたり、
考えながら動かしていました。
「もう少し、考えて作ってくるわ!」
■ そして今日。先程、ツイッターで上からヒントが降ってきました(笑)。
昨日The Mirrorを作ってて前から不思議に思ってたことが解決したんだけど、ドーム映像に欠けてるのは、自分の身体空間だよね。普通のドームって、せいぜい肩から上の映像なので、自分を空間に投入できない。
— Naotaka Fujii (@NaotakaFujii) 2015, 10月 4
一方で、上はなくても自分の身体空間、地面から2mくらいの範囲の映像があれば身体を空間に投入できる。でも、横とか下とかの投影空間があればいいわけじゃなくて、球状のドームはやっぱり没入できない。多分画面との距離と投影する映像の視点によるんだよね。
— Naotaka Fujii (@NaotakaFujii) 2015, 10月 4
なるほど!ありがとうございます!
きっと子どもたちは、その原理原則を身体で知っているのかもしれません。だから、
「ちょっと違う」と感じるし「あの時はおもしろかった」とスタジオの中を飛び跳ねていたのだと思います。
どのような形を作り出していくのか、楽しみです。
リトミック創始者、ダルクローズは光についてどのように言っているのかも調べてみました。
いくつもの芸術(身体造形、音楽、舞台美術)が調和をはかりながら協力するダンスの上演において、とりわけ、作り物と実物そのものを並べて置くことは避けなければならない。実物は、常に、作り物よりも観客の目を強く惹き、後者を不満像な、ばかばかしいものにしてしまう。だから、ダンスの舞台場面では、実際の3次元空間と美術デザイナーが想像で創る背景とは並存できないのである。
身体造形の表現する動きの原動力はすべて、想像力につながるものであるから、実物との比較が幻想をさらに危険にさらし、表現手段の想像的性格を破壊してしまうことになってはならない。
きっと、花が咲いていた、という想像をした時、それを表現する時、
そこに実際の花を置く必要もないし、香りまでを撒く必要なない、ということだと思います。
きっと、いつの日か、音楽が人間の身体の奥深くに入り込み、身体とひとつになることができ、人間の身体機構が、心の情感の多彩なリズムに全面的に満たされ、自然に反応するだけで、外観だけを変える転移で、そのリズムを身体造形的に確認することができるようになるであろう。
ーきっと、音の伴奏抜きでダンスを踊ることできるようになるであろう。
人間の喜びや悲しみを表現するには、身体だけで充分足りるようになるであろうし、そういったもののリズムを指示するのに何も楽器の助けをかりる必要なないであろう。
なぜなら、すべてのリズムは体内にあり、動きやポーズの中でごく自然に外に表れてくであろうから。
(中略)
明日のダンスは、表現と詩とダンス、芸術と情感、真実の発露であってほしいものである。
「リズムと音楽と教育」エミール・ジャック=ダルクローズ著より引用
すまいるリトミック
ついでに、OHP開封動画も上げておきます。ついでです。
OHP開封動画 from すまいるリトミック on Vimeo.
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