森田真生さんを、心のアイドルと勝手に言っています。
どこかで、森田さんは天才だ、ということを書いた記憶があるので、
前奏は省かせていただいて。
上のリンク先にあるように、場所は、
應典院。
以前、上町台地と私学教育(だったかしら)の講演会に参加させていただいた時の、
あの興奮がよみがえってきました。
大阪のこの土地の歴史と文化。
今、そこを歩いている、と思うだけで、吐きそうになるくらい。
お陰で(?)開場時間よりも早く到着しました。
森田さんの講演会は2度目。
前回は、大阪城の中の、畳の上のお部屋で5時間だったかなあ。
帰りの大阪城の桜が、今まで見たこともない桜に見えるくらい、
世の中が変わって見えた。
少し時間がたったから、落ち着いてきたけれど、
今日も、道路がなんで曲がっているんだろう、とか、
道のこのタイルの形はなんだろう?とか、
ちょっと怪しい人に変身。
その怪しさ満点の帰り道に、音楽が耳に入ってきたのね。
いつもならそれまで、なんだけど。ドラッグストアだったかな。
この音楽の代わりに、そろばんの計算の掛け声は流れないよなあ。
はい!計算しなさい!とか、言われたらどうする?
音楽は、こうやって求めていないところにまで、
垂れ流されているんだよね。
何かに書かれていたことなんだけど、
音楽を音楽として聴く機会がなくなってきている。
その、ドラッグストアで音楽を流している理由は、
人の購買意欲を上げるため、であったり、気持ちよくさせるため、であったり、
そう。そこには、人のため、ではなく、利益のため、が大きい。
数学の演奏会が、
心地よい音楽に身をゆだねるかのごとく、
なぜだか胸おどる森田数学の調べ。
なんで、数学が音楽に聴こえるのかは、
数学と音楽はなかよしだから、と、ひとことで言ってしまえば
それまでなんだけども、そこに、「身体性」のようなものが、
あるんじゃないかなあ。
ツイッターに、こんなこと書いてしまっているんだけれど。
アールアールアール、ないないある、のように、三連符とか。タァーイタァーイのように、ふてんの音符のような、盛り上がってきたときに、強くなって!!!!あふううーっ脱力、吸って吸って吸ってぇええええ!吐くぅううう〜、のような。呼吸があの場にいた人達がいっしょになった感じ。そこが音楽。
数学の演奏会、は、そこになにかを求めて集まっている人達がいて。呼吸がいっしょになる。音楽を演奏するAさんは会場Bさんに、の一方的にではなく。空間の空気のようなところにいるCさんのところに、集まっていく。そのCさんの動きに身体が揺らぐ感じ
だから、音楽の、なんてうまく言えないけれど、身体で感じる音楽。まつげが揺れる音楽。みんな手に音叉があってそれが震えあって、音をこちらも出しているように。
森田さんが、そこで、やじるしがくるくるの絵を書いて、それの意味がちょっとわからないなあ、の時は、にやっと笑いが出てくるの。2のナンジョウが〜も、わからないぞにや。この、にやって、音楽に身体が合わなかった時に出るにや、といっしょだなってね。ふふ、えへへ、のような。
音楽は数学がいっぱいで、リトミックの研修も3時間計算とかね。計算?かなあ。わからないから、数を重ねていくっていうのかなあ。それを動いて確認するのね。色や形が見える人がいるって。色とか、なんだろなあ。はっきりしたものじゃないなあ。あれ、朝方に!ついつい。それではごきげんよう(笑)
ごきげんよう!と言いながら、このブログにしつこく書いてしまってごめんなさいね。
なんだろうなあ。きっとね、この森田さんのお話を家で聴いても、
このようにはならないと思う。
音楽をCDで聴くのと、ライブ会場で聴いたのが違うのといっしょね。
そこに、共感性のようなものが発生するんだろうなあ。
「21世紀に私たち人間が取り戻さなければならないものは、自然と生命への共感にみちた、叡智のふるまいなのです。(中略) 私たちは、自然と生命の語りかけるものに耳を傾け、お互いの呼びかけの中から、新しいインターフェイスをつくりださなければなりません。」
森田さんが紹介してくださった、中沢新一さんの言葉。
涙が出てくる。
数学がその逆に使われてしまっていた、というのは、数学だけではなく、
きっとわたしの中にも、たくさんあることなんだって思って。
自然を知るのではなく、お互いが響き合っていかないといけない。
音楽のようにね。
子どもたちに対する姿勢ひとつ。
もういちど見直すきっかけをいただきました。
ありがとうございました。
この会場にいる人たちと、同じ年代に生きることが出来てよかったなあって。
森田さんのお話聴きながら、
何を考えていたのか、恥ずかしいね。
またよろしくお願いします。
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