同じことをお家でやって、と言われたけれど、出来なくて、
とお母さま。
こういうことか、とよくわかりました、ってね、
わたし、うれしくてね。昨日、レッスンが終わってから、言葉にしようと思ったけれど、
これも、伝えられなくて。
ここは、ノートなので、ざっくりとメモしておきます。
男の子が「もういちど」と言っていたことは、
五線カードに、ドレミファソラシド、の玉を置いた後、
鍵盤の上でも、ドレミファソラシド、を同じように指を動かした。
ひとりずつ、そして、そして男の子ふたりで、そして、
わたしもいれて、3人で。
ぴったりと3人の呼吸が合って、すっと、最後のドの音を弾き終えた時、
空気の中に丸い大きな風船のようなものが、ほわんと舞った。
男の子は、ここは憶測でどのように感じたかはわからないけれど、
この「ほわん」を、きっと「もういちど」とお母さまにお願いしたのだと思う。
前回のノートで、砂時計のことを綴ったけれど、
それと同じで、一度流れてしまった時間は、戻すことはできない。
音楽は録音再生機で何度も繰り返し聴くことができるようになって、
町には、消費を促すように、呼吸をはやめる音楽が流れ、
ヘッドフォンで自分ひとりの耳を聴き、
音楽と耳の間の距離がなくなり、自分の聴きたい音楽と耳の間を流れる音は、
雑音と排除され、より透明な、より繊細な自分だけの空間を作り出した。
音楽は、社会をそのまま映し出す。人がそれを求めているから。
求めているものを否定なんてしないし、それは音楽ではない、とも言うつもりもないけれど、それとは別に、幼児期に、様々な音楽の場を経験することで、
より人間らしい生き方が出来るのではないか、と、大げさだけど考えている。
人間らしさ、とは?
この「ほわん」だけに限って今思うことは、
人と人の間を流れる空間を生きる、
そのまた人と人をつなぐ、木や土や宇宙全体を生きる、
あらま、大きくなりすぎた。
でもきっと、お母さまに「もういちど」とお願いした男の子は、
今度、それを、どこかに求めながら、これから生きていってくれると思う。
どこで、どう、どのような形になるかは、
それは、だれにもわからない。
あとは、この子が選んでいくよ。
ああ、楽しみね。
ありがとう。
すまいるリトミック
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